はなやの日誌
(・・・このタイトルの時は僕の独断で書いてるとご判断下さい・・・いつもやないか・・・)
うたおに博多へ行く!!(第51回全日本合唱コンクール)
51thcon_1.jpg (20228 バイト)


 前回までのお話(?)

'89年秋。関西から翌日の一般の部に向けてフェリーで一路博多へ向かった「うたおに」でしたが、練習場として借りた土産もの売り場の響きがあんまりよくて、本番でも調子に乗っておおヨボリしたら銀賞をいただいてしまいました。
銀賞が何たるかも分からないまま図に乗ったのが運のつき。うちあげ会場では普段慣れないタイプの宴会にうまく乗せられおひねりの変わりに財布を投げてしまう人まで出て・・・。
 



さて・・・
あれから何度ともなく伝説のように(何かある度に)
「博多での宴会はすごかったな・・・」
「そうそう、あれで声帯壊したかと思たもん」(これは僕だけか・・・(^^ ;)
「あれを境にうちの合唱団って飲むようになったよね」
 
・・・にあわせて、
「なんであの時銀賞があんなにうれしかったんやろ」
などと、受け告がれてきました。
 
事実42回大会から初めての金賞の、48回大会まで銀・銀・銅・銀・銀・銀・金!!
という足跡をたどるのですが、銀賞をとるたびに唸っていたような気がします(??)
「なんであの時みたいに素直に喜べやんのやぁ・・・」
 
いろいろと理由はありました。
40回の東京大会で華々しく(と、本人達は思っていた)初めて参加した一般Bで銀賞入賞したにもかかわらず、新潟では銅賞に沈没。
いやいや、賞よりも活動とか演奏そのものに不安があって、とっても不本意な1年をすごしたからこそ、博多での「やっちまった」というようなやりたい放題の演奏は、とっても嬉しかったみたいです。

しかも世の中の有名合唱団(なんやそれ)がいっぱい銅賞以下に入る結果で。(これはうちが勝ったというよりたまたま自滅していった感じでした・・・(^^ ;)
FMC、京アカ、ウィステリアなどなど。←おっと失礼!!豊コンさんが銅賞を取ったのはその前の年と次の年ですね・・・、名誉のために書き直しました。なにせそんなの確認しながら書いているのではないので・・・
m(_ _)m
とてつもなくかけ離れたところにいると思ってた愛知のクール・ジョワイエでさえ、金賞を外れてうちと同じところだったしぃ。
 
で、その興奮のせいか当時の副団長が銀賞盾をおっことしたりした表彰式を後に(その後は赤ちゃんでも抱くかのように大事に抱えてるのがやたらおかしかった(^_^)、博多の町の「福岡家」さん、というところで宴会をすることになるのですが・・・。
 


98年秋。

前回の、行きはフェリー、現地ではバス。帰りはバスと飛行機。っていう団体行動とは打って変わってこの頃遠征に慣れてきたのか、いろいろみんなの都合に(わがままに)あわせるのが面度臭くなってきたのか、本体たるものはあっても、ほとんど「勝手に来て、勝手に帰れ」モードで本番当日の練習場に集合ってなパターンで、誰がいつどうやって来たのか。そのうち自分のホテルも勝手に取れ、って言われるんじゃないか・・・。皆さん、いろいろ裏でご苦労いただいてる役職の方をもっと大事にしましょうね・・・はい。
 
僕を含む9名は、いろいろ値段やら時間帯を検討した結果、安い!早い!(どこかの大衆食堂のキャッチフレーズみたい・・・)の飛行機組となりました。
土曜のお昼前に松阪を出て途中三雲、久居で団員を拾い、もう一台の車と待ちあわせているサービスエリアへ向かいました。
今年から学校の先生を離れ、教育センターに勤務のTSUDA氏が、暖房がわりに室内でコンピューターのすべての電源を入れるなんて話してるうちにも(笑わせていただきました)名古屋空港へ。
 
一つ前の博多行きが随分遅れていたようでしたが、僕らの予定していた「3時35分発」は予定より10分ちょっと遅れるくらいで5時過ぎには「博多の地」。

・・・基本的に田舎人間で、あまりにも手順よく短い時間なんで九州に居る実感がまったくなくて、しかも博多って飛行場も、駅も港も中心街に位置する素晴らしい街で、あっという間に
宿泊予定のキャナルシティのワシントンホテルに着きました。
ロビーには代表者会議のためひとり一足早く着きみんなの到着を待っていたチーフマネージャー君が、出演者用チケットとプログラム、バッチをくれました。すでに彼は待ってる間にできあがってる状態。
「コンビニには酒類がなくて、ダイエーまで買いに行った」、とか。
いつもだと他の団体がどんな曲をとりあげているのか知りたくてプログラムをぺらぺらとめくるのですが、すでにインターネットとかでほとんど知っていたし、でも何の気なしに一般の部の欄を見ていると、
 
「明日にかける橋」「タイタニックより」・・・

ヲヲヲ!!!こんな曲で支部代表??「さくら」なんて目じゃないじゃないか・・・。
・・・よく見るとアトラクションのバトントワラーズさんでした。
僕は曲目を見て驚いていたのですが、何人かは写真を見て驚いていたみたい。
「これはどんな合唱団なんだぁ」(^^ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;って。
 
このまま海鮮どんぶりのお店へマネージャー君も連れて雪崩込みました。
その後ぞくぞく博多入りしてきたうちのメンバーがこの店へやってきてほとんど貸しきり状態でした。
地ビール、お酒がおいしかったですねぇ。


博多に来た実感がまるでない上、ホテル周辺のキャナルシティがとってもいろんなお店やら中庭のアトラクションに集まる人で賑わっていて、コンクールに来た自覚までなくなってきて、その夜のうちにパソコンを扱う大きなお店に行ってしまう団員も。
キャナルシティ周辺を見に来るだけでも博多へ来る価値はあるなぁ・・・。


お隣では「キャッツ」の公演がやってたけど、事前に調べたらとても公演時間に間に合わないようなのであきらめました。残念。
ホテルには「はもーるKOBE」さんとか「トヨタ自動車合唱部」さんとか、関係者のもたくさん見えたようでこの時期しかお会いできない知り合いにも会うことが出来ました。
みなさんどんな時間の過ごし方をされたのかな。
 
さてさて。
海鮮どんぶりのお店に戻りますが、最初一緒に来た飛行機組にチーフマネージャー君を加えてやって来たのが、7時すぎに着いた新幹線の本体組が続々とやってきて何故かどんどんこのお店へ。
まぁ、そんなに見て回れないほどお店があるわけじゃないし、ここが目につくのも分かるけど、気がついたらほとんどうちのメンバーとその子供達で埋まってしまってました。
たらふく食べて、「博多にきたらラーメンだぁ」とラーメン屋目指してタクシーに乗りこみました。
 
9年前は日曜日の本番が終わってから屋台とかに行こうと思ったら日曜はやってないって言われたので、今回は土曜のうちに食べようとみんな意気込んでたのですが(結局、月曜も祝日のせいか、本番の後もやってました) 九州に行った知り合いか、九州の知り合いかに聞いたのか、チーフマネージャー君が「***って店がこの世のものとも思えないおいしいらしい」と言い出し、僕らが乗ったタクシーの運転手さんは最初はよく知らないみたいな反応でしたが、(つまりちっとも有名じゃなかったみたいですぅ)
博多のラーメンって言いうとこんなお店とか、こんな屋台とかが有名ですよ、なんて話しも交えながら走らせてくれました。

その車の中で急にもじもじし出すマネージャー君。
「・・・すいません、まだかかりますか?」
「そうだねぇ、渋滞してるから」
「すいません、用を足したいんですがぁ・・・」
最初困った運転手さんにわざわざ工事をしているところまで回っていただき、降りようとしたら電話がなり出し、何だか電話片手に草場の影へ走り行く後ろ姿はとっても間の抜けたものでした・・・。(^^ ;)

 


携帯電話片手に走るチーフマネ君のお相手は団長の長男坊「トモ君」からでした。


 
来るのが遅いのでかけてきたとか・・・。
3歳児相手に彼は状況を説明したのだろうか???

子供たちに非常に愛される彼は到着したラーメン屋でもずいぶん遊んでいただきご苦労様状態でした、ねぇ・・・(^_^)

まだその後飲みに行く者あり、ホテルに帰って休む者あり、コンピューターに向かう者あり(僕だけか・・・)でキャナルシティでの夜は更けました。

翌朝。

当日の出番は後ろから2番目ということで、練習は10時からお昼までで、後はまたタイムテーブルにのる4時過ぎまで自由と言うことでした。

ホテルでの朝食を済ませ、「芙蓉別館」なる今回の練習場に各自タクシーで向かいました。
で、着いてみると・・・

「うーん、降ろされてはみたけど、ここってホンマに練習場??」
「みんな来とる??」

着いたところはどう見ても打ち上げ会場にしか見えない、お料理屋さん(若しくは飲み屋さん)。別館と呼ばれる所は披露宴とか出来るようなところで、うちの練習してるそばで法事をしていたようで、黒ずくめの方々がたくさん・・・(^_^;;そう言えば9年前はドライブインのような所の土産物売場の横で机片づけてコダーイを歌いましたねぇ。

広いところに来て、はしゃぐ子供たちをそばに練習が進み(もう、うちではこの光景は当たり前で、これが出来なきゃうちの活動は成り立ちません)、練習嫌いなうちがそんなに長い時間するわけもなくあっけなく解散。

各々お昼を食べに行くなり、そのままコンクール会場に向かうなり、また現地集合と相成りました。

例年・・・コンクールの会場にそのまま行ってしまう僕でしたが、今年はホテル周辺の魅力に負けてしまい、遊びほうけてしまいました。

・・・たまたままとまったお金が入ってるのを鞄の中に発見して、危なくプリンター抱えてタイムテーブルにのる羽目になりそうでした。

(うーん、勝手に遊びに行って問題発言かもしんないけど、この頃の一般Bグループってなんか・・・疲れてしまうのですよね・・・。
演奏曲目もそんなに僕には魅力あるものはなかったし・・・。
うちもそのBグループなんだよなぁ・・・)

で、結局パソコン屋さんやらを散策してるうちにあっという間に時間は過ぎて、会場へ!!
うーん、前回来たのって42回大会。9年前なのですが、会場周辺の光景って覚えてるものですね。
近くへ来るなり、あそこで柔軟体操したとか(あの頃はそんなことしてたんだなぁ(o^_^o))、あの通路で知り合いにあったとか、僕らが着いたときFMCが集合してたとか(お亡くなりになった高野先生のお姿も頭ン中で出てきました)、ホンマ当たり前のように出てくるのですよ。
で、まず何をしたかというと前回出来なかった、お隣の国際センター(お相撲の九州場所の会場ね)で記念写真を撮りました。
「今回の優勝は琴錦かぁ・・・前回は小錦で””が増えたなぁ・・・」

集合場所に行くとまだ少し早いようで、係りの方が寒いのを気遣ってか建物の中に入れて下さいました。
会場でコンクールをぎりぎりまで聴いていたグループがいなかったけど、ほぼそろってる。

 


タイムテーブルが始まると、あっという間。

建物の中を歩けば歩くほど1周前の博多大会を思い出しました。
そうそう、前回の着替えは大久保の人たちと一緒だった、えらくハイテンションだなって思ったのを覚えてる・・・(あの時大久保混声さんは、初めての金だったんですよね)

課題曲「嫁ぐ娘に」は「うたおに」がずっと取り上げてきた思い出、そして思い入れ深い曲だったし、
自由曲の「さくら」には、とにかくこの曲を素敵に咲かせてみたい、それがコンクールならもっと素敵じゃない?ってあえて不利なのを承知で取り上げた曲でした。(特にシェーファー作品が3年続いた後に取り上げたのですから、いろんな見方をされてしまうだろうなぁ、って危険も承知で)

思い入れが強すぎて破綻した部分も多くて赤面ものだったけど、 f^^;)でも後悔するような演奏ではありませんでした。

結果、銀賞だったけど、翌日ホテルの前で子供達と紙風船で遊ぶ団長を見ながら、

何か、みんなの力で
「きらきら」と
「風」に舞った
「さくら」が、とても大切な物に思えて仕方なかった、

のを、(こうして今書いていて)思い出しました。

みんなほんま、ごくろーさまでした!

ps
そうそう、打ち上げはちゃんと「福岡家」さんで行いました。
いやぁ、これも、そういやこんなやったなぁ、って馬鹿騒ぎしたのを思い出しました。
それにしてもそういう意味ではずいぶん大人になった(?)「うたおに」さんでした・・・ねぇ。
みんな正常な意識(笑)のあるままホテルに帰った・・・はずです。


51thcon_2.jpg (16728 バイト)

↓福岡家での宴会
hukuokaya.jpg (6374 バイト)hukuokaya2.jpg (7629 バイト)
hukuokaya3.jpg (13324 バイト)