突然ですが、夏の音楽会の(?)ことなど・・・。

過去のプログラムです

2002年8月4日に第31回目の音楽会を終えました。
田中信昭さん、中嶋香さんを迎えての音楽会で、いつもながら暖かいお客様に囲まれてのものでした。
前回の第30回が2000年の11月末だったから、実に1年8ヶ月ぶりの音楽会でした。

「うたおに音楽会」と言っても、僕が知った頃は実質「うたおに」定期演奏会といってもいいものでした。

で、当時「うたおに」の年数と回数があわないので

「なんで?」
と聞いたところ、
年2回のペースでの開催を8回も続けてきたというのです。
(コンクールも当然参加)

そのあと、少しお休みしていた年もあったそうですが、それでもなんて事を・・・、
無茶な合唱団やなぁ、と思った物です。

で、しばらく僕が入ってからは・・・というか、かなりの間ずっと夏に開催する(あるいはその周辺での)定期演奏会の状態が続きました。団からの(音楽会の)紹介にもそう書かれていたのですから、もうそういうつもりだったのでしょう。

夏に音楽会、その一ヶ月から二ヶ月後にコンクール県大会、中部大会、そして11月末の全国大会。と、続くのが毎年の日程でした。
特に全国大会にずっと行くように(行けるように)なってから、なかなかこの日程を変えるのは勇気がいったのでしょうねぇ・・・。

夏に定期演奏会である音楽会をして、その直後にコンクール。
コンクールに毎年出るのは周知の事実だったのですから、普通は県大会に備えてコンクールでする曲をステージに乗せておく(あるいは平行して準備しておく)のが一般的なお話(?)でしょ?

僕が入団したのは全国大会に参加2年目の年、7月10日に音楽会があり、当時の県大会は思い切り秋だったので(あの年は10月1日)、その間にコンクールのみの練習が出来ました。

あの時の音楽会の打ち上げで、コンクールはマトラやぁ。
・・・と、聞きました。

コダーイの「マトラの風景」。
その年入った団員がけっこうな割合を占める中(テナーは7人いたのですが、その年入ったのが3人、2年目が1人の新人ぞろい・・・)、マジャール語がはじめてなんですぅ、なんて言い訳も聞いてもらえず、一気にいってしまう。

・・・まぁ、歌ったメンバーもいたみたいだし、「うたおに」でもずいぶん何回も取り上げていたみたいだから、こういう物(進め方)なのかな、、、という程度の認識でした。

あぁ、、、この話を続けるとこれは「音楽会のこと」ではなくて、「コンクールのこと」になってしまう・・・。
けど、続けます。

その頃新設されたコンクールのA部門(40名以下の部)に参加して「うたおに」は全国大会に行けるようになったのです。
で、その40人以下の部というのが、当時はまだまだ発展途上な感じで、お得意(らしい)の「マトラ」を自由曲に持っていくのだし楽々予選突破なんだろうなぁと、

その年入った新人の僕は実は内心(怒られるようなことを)思っていたのです。

忘れもしない各務原であった中部大会。

なんだか予選を突破するだけで怪しい感じ・・・。
なんとか1位で突破する物の・・・。

そして、その次の年。
そのあたりから結構青ざめてきます。

田中先生をお招きしての初めての音楽会。奇しくも前年と同じ7月10日の開催でした。
その年から高校生に配慮して(?)県大会、中部大会の日程が大幅に早くなりました。
そして、一般部門、高校部門のA,B分けもAグループが32名まで。Bグループがそれ以上、という今も続いてるものになりました。

前年ぎりぎり40名で参加した「うたおに」は選ぶ余地はなくBグループに参加。
これは仕方ないとしても、その年は音楽会からコンクールまでが「一ヶ月半くらいしか」ないのです。

「マトラの風景」という手慣れたはずの曲でも、
もっと長い時間かけてても、なんだか結果がふるわなかった。

大幅に音楽会からの期間が短くなってしまったこの年、
きっと「勝つつもりなら(笑) 」、それらの準備があるはずだ・・・。

と、思っていた僕の認識はやはり甘かった・・・。

田中先生を招いた音楽会のプログラムからは当然のようにコンクール曲は選ばれず、音楽会が終わった後から選曲が始まる・・・。

音楽会からコンクールまでの、その短い期間に、
みんなでいくつかの音源を聞いて曲決めするんです・・・。(^^;

・・・この先の話は、またの機会に続けるとしても、、、

少なくとも全国に行くようになってから音楽会は県大会の前に開催されていますが、

コンクール曲をざざっと記すと、
’85年 ノルウェイの娘 美しき祈り(コダーイ)
’86年 マトラの風景より(コダーイ)
’87年 4つのクリスマスモテット(プーランク)
’88年 2つの合唱作品(ピッツェッテイ)
’89年 イエスと商人 祝詞(コダーイ)
’90年 パーパイネ(リゲティ) セーケイ人たちへ(コダーイ)
’91年 悔悟節モテットより(プーランク)
’92年 ト長調ミサ より(プーランク)
’93年 フランツリストに捧ぐ(コダーイ)
’94年 太陽の賛歌(ウォルトン)
’95年 マジックソングズより(シェイファー)
’96年 ガムラン ファイアー(シェイファー)
’97年 17の俳句より(シェイファー)
’98年 「風の馬」より 「うたU」より(武満徹)
’99年 夕べの歌、 カントゥスミサより(ラインベルガー)

これらの曲を直前に(つまりその年の音楽会で)歌ったのはたった1回だけで(ピッツェッテイ)、音楽会以後に曲が出てきたのは(少なくとも団員に発表されたのは)10回くらい・・・(いや、もっと)ある?

そんな風に音楽会終了後おしりに火がつくと(?)分かっていても、音楽会までの期間はそれだけで終わってしまう、それだけにかかりきりになる「うたおに」でした。

おそろしくええ加減な・・・いや、音楽会に全神経を集中させていた(・・・とは、とても思えないけど・・・?)
・・・グループでした、と書いておこう・・・。うーん。(^^;

「うたおに」精神ここにあり、、、という感じです(^^;

この話こんな感じで続くのかな?

2002.8記
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